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2010年5月

矢島さん!ごめんなさい。

 2004年から2009年までTVは観ない人になっていたのだけれども、プロ野球の試合が始まるとストーカー連中に緊急車両サイレンや暴走小僧の改造マフラーやエンジン音――、さらには夜鳴きラーメン屋や石焼きのスピーカーでノイズキャンペーンを始められる。この体制は引越し後も変わっていない。最近ではヘリやセスナまで動因している。(夜ですよ!)。 

 ジャイアンツが得点する直後に音によるアンカリングがあるので、折角TVやラジオを視聴しないようにしていても今現在どっちのチームが勝っているかストーカー達が強制的にそのノイズキャンペーンで教えられる。試合が終わったころにインターネットでスコアボードを確かめてみると点数の動きに合わせてストーカーたちは本当にノイズキャンペーンしているから恐ろしい。そして結果もストカーが被害者にノイズキャンペーンで教え込んだとおりの結果だ。カルトとはこのことをいうのだとつくづく思う。

 無理にTV視聴をしないようにするとアンチ巨人の私の心をイラツかせるようにノイズキャンペーンを彼らは執拗に繰り返す。そして知りたくもない試合の経過や結果を伝えてくる。努力してTV視聴をやめた意味すらもなくなてしまう。だから野球の試合中不快な時間で無益にすごしてしまうよりは気を紛らわすためだけでもTVを観てしまえということにした。

 視聴は携帯のワンセグとパソンンのキャプチャーTVだけで、TVは破棄したまままだ購入していない。完全にTVに心は許したわけではない。しかしプロ野球試合中にTVを観るくせがついてしまった。野球をやっていれば観てもいいのだが、肝心のプロ野球は視聴率が取れないという理由で、ほとんどやっていない。だから最近はほとんど娯楽ばかりをみている。(スポーツ怪現象とは当分オサラバだ)。


 するとまた特定視聴者(私)の個人情報をネタにするものがあっという間に増えだした。人身攻撃もひどくなっていく。携帯にワンセグTVのスイッチ入れても、PCのTVを観始めても直後に同じCMが流される。中傷や脅迫など嫌がらせが中心であるのは以前のメディア被害と同じだ。番組の中でも私を意識したようなユニット、また私をバッシングしているような歌がまたつくられた。あぁあ!これっていつまで続くのだろう。もう10年は過ぎているのに・・・。



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 前回TV関係のことを書いたブログの内容に何故かかなり反発しているのはフジTV。トンネルズが「矢島美容室」というユニットで歌をうたっている。これは昨年からのこと。恐ろしいのは、この矢島美容室というのは、私の幼馴染(おさななじみ)の名前と家の職業をそのまま使っているのだよね。これが。すごいことに。

 女装して歌っているのは私をオカマだと中傷をしていることでもある。またコケにして笑いもとっている。(もちろん私はオカマでも黒人でもありません。)。この手の人身攻撃用の曲の内容を聞くと対象にされた被害者の精神がやられてしまうから聞かないようにしているのだけれども、トンネルズが番組で女装ししながらコントやっている放送をチラッと聴いてしまった。それによると「ストロベリー」というのがユニットでのタカアキの名前だという。

 驚くべきことにそれは、ネット上の私のアカウント名でもあることだ。芸のために被害者のプライバシーであるアカウント名まで使うのか?これって、すごい人権侵害だよね!被害者の私を何故か後輩の芸人扱いしているときがあるからちょっとずうずうしいなとは思っていたが、まさかここまでするとは・・・。


 もちろん私は芸人どころかTV局に行ったこともないような一般人であり一視聴者だ。まだまだこのユニット中でプライバシー侵害が行われていることは予想できているけど、対象にされた被害者はそのメディアを使った恐ろしい暴力に番組も歌もまともに観られるわけがない。

 ところで「矢島美容室」と名前が使われている幼馴染(おさななじみ)はさぞびっくりしたことと思う。もしも幼馴染がTV側を訴えたならば、私が証人に立つしかない。それしかないでしょう。まだまだ被害者のプライバシーに関することが信じられないレベルまでこの歌やユニットのなかに隠されているのだが、これ以上ブログで言うと自分で自分のプライバシーを侵してしまうことにもなってもどかしい。

 集団ストーカー被害者が一般社会でストーカーたちに迫害されている。ぼろぼろになった心を慰めようとTVのスイッチを入れる。すると今度はメディアの世界でも嬲(なぶ)りものにされる。おそらく被害者からすれば過酷すぎるようなこれらの事実への認識はTV側の人間にはないのかもしれない。知人や芸人仲間への遊び感覚でやっているとするならば、たしかにトンネルズはかつて「みのもんたへの逆襲」というタイトルを歌をだしていた記憶がある。しかしそれは彼らと同じTVの世界の住人同士の応酬(やりとり)であった。無防備な視聴者に対してではなかった。

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ストーカー歌手のパラサイト商法12

 一昨日は有線にて平井堅の曲が久々にかけられていた。一年ぐらいブランクがあっただろうか。そして今日は 携帯のニュースで平井堅のコンサートのことが載ってあった。(ここで部屋の外では草刈り機の轟音に引き続いてリサイクル屋の凱旋始まる。半ば私はヒステリーを起こす)。これも2年ぶりぐらいのこと。しばらく平井のニュースは聞かないしTVにも観かけないので安心していた。トシちゃんが参加したとあった。一方は童謡のリサイクル曲が唯一ヒットの一発屋。もうひとりはかつてTVを席捲したスター。どこにこの二人の接点があるのか判らない。ちょっとバランスが悪い取り合わせ。ともにTVで見かけることは最近ではほとんどない。


 どうでもいいようなマイナーなニュースなのだが、意図してマスコミに見せ付けられるのでちょっと反発したくなる。本来トシちゃんと平井は脈略がない。なぜトシちゃんが飛び入りのように平井のコンサートに参加したかといえば、また私が仲介役になっているらしい。両方とも名前は私の家族、親戚の名前と同じというお決まりの理由だ。(平井のほうはこの偶然で売り込みことができた)。さらにいえばこの一ヶ月かつてあの同じタノキントリオにいたヨッちゃんの番組を熱心に見ていることが理由にあげられる。いまちょうどヨッちゃんは教育TVの趣味講座でロックギターの講師をやっている。この数年まったくTVを楽しむことができなかった私なのだが、なぜかこの番組に関してはTVに向かって冗談をとばしながら、毎回楽しく視聴させてもらっている。

 そんな贔屓目(ひいきめ)に芸能界を見ている視聴者の私にトシちゃんがジェラシーしているとでもいうのだろうか。たしかに被害者なのだがその副産物として特別席にいる。そしてこの特別な視聴者の言動によってはTV局の人事やCD売り上げをも左右することがある。だからそんな被害者にジェラシーをおこしてやっているのだ。それにヨッちゃんだけでなく僕も忘れないでということか。そんな風に被害者の私に理解してもらいたいというトシちゃん側の願望は伝わってくる。だがどうしても落ち目のタレントが機会をみて特別なポジションにいる被害者の力を利用しようとしているようにしか当人の私の目には映らなかった。たのきんトリオは私の被害以前のタレントだし、ストーカー加害者ではなかった。しかもたのきんトリオが大好きだったタレントだった分、何故か悲しくなる。ああ、またしても視聴者(私)とマスコミ間協定は一方的に破られる。

 重症ストーカー加害者・平井堅のことを書くにはあまりにオチメで、尚且つ、三流すぎて最近では書く価値もなくなってきた。ほんとうに時代遅れな童謡歌手になってしまった。いや、童謡でしか食いつなぐことができなかったわけだからもともと才能がなかったやつなのである。書くことによって平井の芸能人生に延命措置効果となってしまうならばなおさら触れることを控えるのは得策だ。こういうときの報復的行為として「川田亜子さん最後の言葉」や
「視聴者へのアンカリング」の続編をなにげなく書いたほうがいい。それとも別な人のことを暴露すべきなのか。いづれにせよ私は彼らによって墓場まで持っていこうとしていた数々の思い出やトラウマを吐き出すことを迫られている。


 (因みにトシちゃんは20代の頃からハゲであった。トシちゃんがアデランスであることをいち早く見抜いて一度ハゲのままTVにでるように説き伏せた人物がいた。そしてトシちゃんをカミングアウトさせてしまった。その人物がなんと視聴者であるはずの私だとされている。でもこんなことをマスコミからほのめかれても私には何がなんだかピンとこない。マスコミお決まりの誇大表現と洗脳である。しかし確かにTVで見かけるトシちゃんをいつもハゲ呼ばわりしていたうっすらと記憶はある。ハゲのままTV出演したいきさつが仮にそのようなものであったも、そこでもトシちゃんの独断と暴走があったのは確かなようだ。トシちゃんには恨みはない。いつまでも素敵な有名人でいてほしいことは変わらない。ただトシちゃんに言いたいのは、そこまでしなくてならないほど芸能界での身の上が危ないのか?ということなのである。童謡が唯一のヒット曲である一発屋とはそもそも格が違うはずである。プライドを持ってほしい)

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ストーカー規制強化法(集団ストーカー禁止法)に向けて③

  今日、「子供の日」はゾロメ車両が殆どありませんでした。リサイクル屋のスピーカーによる騒音凱旋もありませんでした。しかし全く被害がないということではありませんでした。スーパーに日用品を買いにいったのですが、自転車を停めてあったスーパーの駐輪場に戻ってみると自転車の鍵が開かれていました。4桁の数字をあわせるチェーンのやつなのですが、確かに鍵を閉めて店内に入った記憶があったものの開けられた鍵は自転車の籠(かご)の中にちゃんと入っていたので不審に思いながらも家に戻りました。

  家に戻ると間髪を置かずにすぐさまスパーへまた向かいました。買ってきた日用品の荷物が多くなったので、荷物をいったん家に持ってきて再び不足分の食料品の買出しに向かったわけです。先程気持ち悪いことがあったので、駐輪場では今度はしっかりと自転車の鍵を掛けました。店内では工作員は少なめでした。しかしレジのところではまた黒服青ジーンズの複数の工作員にタイミングを合わせられてうんざりしました。いつものことですがレジに並んだとき工作員が後ろにべったりつきます。もしくはわざわざ同じ台にやってきて買ったものを目の前で詰めようとするのです。この手のシャドーイング(付き纏まとい)は毎度頭にきます。カッカしながらスーパー前の駐輪場に帰ってきましたが恐ろしい偶然はまだまだ続きます。

  自転車の籠に荷物を置こうとすると、目の前の光景にたちすくみました。なんとまた鍵がまた籠(かご)の中に入っているではないですか。工作員が閉めたはずの自転車の鍵が開けられて籠(かご)の中に入れていったのだとすぐに判断はつきました。なにせこれで100回目ぐらいやられてますでしょうか。「またか!」。気持ち悪いには気持ち悪いです。鍵をいくら変えても4桁の番号は工作員連中には筒抜けということをも意味するので、「気持ち悪い」というよりは、「怖い」ことには間違いありません。でも自転車を壊されたこともあるので、それよりはまだましでしょうか。壊されたときは被害届けはもちろん出しました。しかし、この鍵を開けて何もしないと被害は、なかなか被害を警察に届けにくいですよね。

  なぜか私の場合は「家宅侵入」が殆どありません。
(何故かというと私にはメディア被害もあるからだと考えています。メディアは私の家に出入りする人物をオンタイムに把握しています。幸か不幸かメディアがわが家を監視してくれている状態は、本家ストーカー集団の工作員がなかなか私の家には手を出しにくい状況をつくっているようなのです) ですから私には家宅侵入の被害がない分、野外でのこのような自転車の悪戯(いたづら)などが家宅侵入被害のある他の被害者の方々よりも必然的に増えるのだと思っています。

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  さて自転車の鍵への悪戯(いたずら)で切れそうになった感情のまま買い物かごに荷物をいっぱい積んで自転車をこぎだして道路にでますと、今度はパトカーがサイレンは鳴らさずに赤色燈をまわして目の前を通過して行きました。これも「偶然を装った嫌がらせっぽい」ですね。


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  しばらく自転車をこいでいると、案の定、同じパトカーが私の家の前の別の通りに先回りして待ち伏せしていました。もちろんいつも通っているルートです。これも加害者側に言わせるとあくまで「偶然」であるようです。殆ど毎日起こる不思議な「偶然」です。因みに反義語は「必然」です。被害者はこのことを「故意」と別な表現をします。

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  警官はドライバーの一名のみでした。職務中の警官は無線連絡が一般的ですが、この警官はうつむいていて携帯のメール画面を見つめていました。その姿(ポーズ)はまるで工作員の中学生そっくりだったのには驚きました。こちらのほうの光景は先程の自転車の鍵への悪戯よりも数倍も気持ち悪かったです。

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  ところでタイトルのほうに戻ります。ストーカー規制法改正です。被害者と全く面識のない加害者(工作員)が偶然を装って行うストーカー犯罪にどうやって網を掛けることができるかということがポイントなのかなと思いました。それには外国の組織犯罪関連の法律や参考になるような気がしています。

  具体的に言いますとある外国のマフィアがその国の市民を脅迫するとき、マフィア本人がその市民の前に直接姿を表して脅すことは稀だと思うのです。手先を使って、足の付かない脅し方をするのが映画やドキュメンタリーで知りうるところです。集団ストーカー犯罪に置き換えると「手先」は「工作員」。「足の付かない」は「偶然を装う」ですね。もしそのようなマフィアによる巧妙な脅迫を取り締まる法律がどこかの国に存在しているならそのまま日本の集団ストーカーの「仄めかし」や「シャドーイング」犯罪の取り締まりにそのまま転用できるのでないだろうかと思いました。

  どんな犯罪でもそうですが、その手口は年を追って悪質、巧妙化していきます。それを取り締まる法律も対応していくべきだし、実際犯罪の進度によって法律も対応させていっています。「立川署警官ストーカー殺人事件」に代表されるように、日本のストーカー規制法が最初から機能しない愚劣な法律ならばなおさらその法律が機能するように改正するのはごく自然なことです。




  実はストーカー規制法改正をブログで言ってから多少集団ストーカーの動向に変化があります。集団ストーカーたちは明らかに嫌がっているのです。その手ごたえがあるのです。日本にその存在すらない各種権利法に関して発言したときもやはり同じ反応がありました。加害者側へ情にうったえても、一般的な倫理を説いても加害者側は決して聞き入れるような人たちではないことは長年の被害経験によって分かりました。しかしストーカーたちはストーカーができにくくなるような被害者側の立法的活動や政治的活動には非常に敏感であることもまた確かなようです。

 私は政治的な発言は極力控えてきたのですが、直接、集団ストーカーに関わる法律的問題は被害者であるならば、自分の健康状態が許す限りは、むしろ自分の問題として積極的に参加していくのは当然なのではないかとも思い始めました。しかし法律は難しく殆ど分からないことだらけです。これから勉強しなければあまりに多すぎますが、被害者がこの生き地獄から抜け出せる鍵はこの辺にあるような気がしています。

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