アイヌは先住民ではありません(アイヌは移民だった)
アイヌの故郷には本当に「ユーカラ」の虎がいた
「9世紀のアムール川流域には渤海国の諸王に従属するクシュの諸種族が居住していた。その中にクイ(アイヌ)《骨嵬》とギレミイ(ニブフ)《吉烈迷》のいくつかの氏族が含まれていた。これらの種族たちが住んでいた土地は後の渤海の領域に入り、テリ府《鉄利府(ウスリー川以東)》およびモゼ府《鄚頡府(ハバロフスク西南)》と呼ばれていた」。《M・S ヴィソーコフ「サハリンの歴史」》。アイヌとニブフは古い時代から海外に存在していた少数民族であって両方とも7世紀〜10世紀に中国東北部から沿海州に栄えた『渤海国』というツングース系民族を中心とした多民族国家に組み入れられていた。アイヌには北海道・樺太以前の本当の故郷が海外にあったというのです(確かにアイヌの歴史でもある口述叙事詩「ユーカラ」には頻繁に虎が出てくるが日本にも樺太にも虎はいない)。ここへきてアイヌやニブヒは樺太・北海道で発生し長期に渡ってそこに居住していた先住民族なのではなく後から大陸から海を渡って来た移住民族であることが露呈してしまいました。日本において縄文人やエミシから急速変容とげアイヌとして自然発生したというおとぎ話のような今までの様々の学説はこの文献の発覚とDNA遺伝子解析の合わせ技によってまったくの虚偽であったことが決定的になりました。赤の他人同士であった擦文文化とアイヌ文化とのミッシング・リンクを今後はもう無理に繋げる必要はなくなりました。アイヌは外海の大陸で多民族国家を築いたことのある名前の知られていた一つの民族であり擦紋文化人や和人が先住していた日本に後で移住してきたわけですから、都合よくこじつけて先住民にしたり縄文人やオホーツク人をアイヌの祖先にしたりにしようとしたりするのは間違っています。
どのように日本に入ってきたかー「13世紀鎌倉時代に蒙古に追われて日本にやってきた」はデマではなく歴史事実
アイヌの樺太北海道移住開始は1263年木華黎後裔碩徳(シディ)の吉里迷(ギリヤーク)遠征あたりからで『新編弘前市史 』 文献に1260年北海道における最初の不穏な異変が「蝦夷(北海道)騒乱」という記述に見られます。2,3年前にも何度か蒙古興隆拡大に伴う沿海州への遠征があったのでしょう。実際樺太討伐遠征だけでも8回も執拗に行われています。アイヌによるギリヤーク領侵入への苦情を聞き入れた元寇はその要請に応じて1264年アイヌ討伐のため樺太遠征を開始。1284年三年連続蒙古樺太侵攻しています。「この数度の攻撃にわたる元軍による樺太への渡海侵攻の結果アイヌは元軍により樺太から完全に駆逐され北海道へと移住したとみられる」。(中村和之「北からの蒙古襲来の真相」『歴史読本』第47号 )
「元史世祖本紀至元元年(1264年)十一月辛巳の条に『《骨嵬》クイ(アイヌ)を征す。是より先、《吉烈迷》ギレミイ(ニブフ)を内附(服属)す。いふ其国の東(大陸古文書は時計回りに90度で南を示すことあり)に骨嵬(クイ→唐子⁉)、亦里宇(イリウ→日の本⁉)両部あり。歳に来たりて疆(国境)を犯す。故に往いて之を征す』とある亦里宇と漢魏時代の挹婁の親類関係を問題として取り上げているが、両者を関係づけることは、その地理的条件から見て、大体誤りのないように思える。そうだとすれば挹婁(ゆうろう)は、元代においてもその名をある特定の部族し、しかもなお同様に黒竜江右岸、南樺太の対岸辺りに居住していたことがわかる」(石田英一郎)。
当時の北海道の住人を和語の通じない唐子(からこ《アイヌ》)と日の本(ひのもと《アイヌ》)そして和語が通じる渡党(わたりど《和人》)の 三種類にわけて説明し、アイヌの実態を国内で最初に書き記した古い文献「諏方大明神画詞」(小坂円忠1356年 正平11年) がありますが、アイヌを唐子(〘からこ〙『《唐》は中国を特定とするより外国からきたものの意』) と呼んだのは北海道の先住民である和人の先人が中国満州付近から北海道にやってきたアイヌの出自を把握しその素性を的確に表現した呼び名であったわけです。「三種の蝦夷のうち、日の本、唐子の二類は、その地外国(大陸側故地)に連り、形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽(きん)獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も(外国語で)通じがたい。一方、渡党は和人に似ているが髭(ひげ)が濃く多毛である。言語は俚(り)野(田舎じみている)だが大半は(日本語が)通ずる」(『諏方大明神画詞』)。
この『諏方大明神画詞』にある三種類の人たちが北海道に居住するころにはすでに擦紋文化が消滅して一世紀ほど経過しています。その300年前にはオホーツク人が樺太に移って北海道には居なくなっています。当時この三種類の人たち のうち北海道先住民の擦紋文化(縄文文化系統)を継承しているのはかつて同じ和語同士が通じ合っていた渡党の人々でしょう。少なくとも和語が通じなかった唐子(外国から来た人たち)ではありません。(奥州藤原氏の頃は北海道にもアイヌがまだ存在してませんから《義経も頼朝もアイヌを見たことも会ったこともないでしょう》奥州藤原氏がワシ、タカ類の矢羽根など高価な交易品のため樺太や大陸まで向かわせた当初の交易パートナーは擦紋文化人や渡党であって唐子《アイヌ》が和人の交易パートナーとなるのは擦紋文化と奥州藤原氏滅亡後の14世紀の安藤氏の時代からです)
ロシアのアイヌと日本のアイヌ
「最初のサハリン居住者は『トンチ族』だった。ところがこの集団はアイヌが来たことによっていなくなった。その後にニブフがアイヌを追う形でサハリンに移ってきた。ニヴフはそこに発見した竪穴住居跡を見て『アイヌの穴』と呼んだ。当のアイヌは『トンチ族の穴』と呼んだ」。(E・A・クレイノヴィチ『サハリン・アムール民族誌』)
サハリンでは上記のようなサハリンの先住民の順番「トンチ→アイヌ→ニブヒ」を言い表した「トンチ伝説」という言い伝えが残っています。トンチ人は竪穴式住居なのでオホーツク人でしょう(樺太は北海道の状況にそっくりでアイヌの前に先住民がいて縄文遺跡や擦文文化遺跡もあり擦文文化人の竪穴の可能性もある)、コロボックルは当時千島列島にまだ残っててトンチと同じくアイヌの口から出た言葉なのでコロボックルとトンチは別々の存在として区別できます。ところで先に樺太にいたのは蒙古に服属していたニブヒでそこにアイヌが侵入してニブヒは蒙古に解決を要請し蒙古軍がアイヌ討伐のための樺太遠征(1264〜1308年)があったわけだからニブヒとアイヌの先住民の順番が逆ではないか思う人がいるかもしれません。しかし残された遺跡・遺構などの物証で判断する考古学上ではトンチ(オホーツク人)やコロボックルは先に存在しててもニブヒとアイヌは樺太(北海道にも)にはもともと居なかったことは伝説通り確認できているわけですから詳細な経過は「トンチ伝説」や文字を持たなかった人たちの地盤の伝承は古い文献と同じくらいが価値があり正しいように思います。
「樺太アイヌはトンチについて語りたがらない。ピウスツキは親友となった樺太アイヌ男性から実はトンチは樺太アイヌより先住者であることが明らかなのでそのことが知れたらロシア人によってこの土地から追い出されるのではないかと懸念しているという理由を聞かされた…」。(北海道民族学会誌第2号『樺太アイヌの竪穴住居利用について』田村将人)
一方日本のアイヌは、「サケ捕獲は先住権 アイヌ民族の畠山敏さんサケ捕獲決行」。「巨額民族共生象徴空間施設ウポポイ」。「アイヌ子弟奨励費制度および大学等修学資金貸付制度」。「アイヌ民族の権利の保障を求める決議」…
移住時期も大陸の出自場所もまったく同じアイヌなのに移住した先の国によってエラい違いです。
アイヌの中のDNAが北海道縄文人ではなく関東縄文人に近いのは関東から江戸時代初期に 大量の入植者が北海道に入って混血したため(的場光昭氏 「科学的アイヌ先住民否定論」)
民族の歴史を記録してしまうDNA
「アイヌ集団の特徴は(日本人も持たない)ハプログループYを持つことにある。…縄文人にはこのハプログループYは存在せず、アイヌ集団には別ルートで考える必要がある」(元国立科学博物館長 篠田謙一「DNAで知る日本列島集団の起源」普及啓発講演会報告集)
「少なくとも現時点のミトコンドリアDNA分析からは、二重構造説が想定するアイヌは縄文人の直系の子孫であるという言説は支持されない事になります」(元国立科学博物館長 篠田謙一「DNAで語る 日本人起源論」) 。
すなわち遺伝学的にも縄文人はアイヌの祖先でもなんでもなかった。それもそのはず、結局は700年前にやってきた移民だったわけですから。アイヌにいくら縄文DNAが多く含まれていても室町時代以後日本人と混血して混入した縄文DNA は古からある日本国内の純粋な縄文DNAとは全く違っていて当然なわけです。例えで言うならハバロフスクやウラジオストックの海外縄文人は日本国内の縄文人とは全く別物だということです。同じ縄文人なら最低でも日本語族の仲間になるでしょう。しかしアイヌの中の縄文人は米国大陸のインディアンに近い言語であって日本語とは全く違います。日本語グループの仲間でもありません(半島南部に縄文遺跡が存在する韓国の朝鮮語ですら日本語族の仲間とされています)(中川裕「日本語とアイヌ語の史的関係について」『日本語系統論の現在《国際日本文化研究センター》日文研叢書第31巻)
本州のアイヌ地名とその地名由来は一つ残らず科学性も歴史地理的根拠もないデタラメ
「タイマグラはアイヌ語の‘タイ・マク’の転訛で“森の奥へと続く道”という意からの命名とされています。ここはまさにそのような佇たたずまいです。 しかし、近年の歴史学やDNA遺伝子学の見地からすると、アイヌ人が東北地方に住んでいたという事実はない(下北の海沿いは例外)ことがわかってきました。科学の進歩はアイヌ語に由来すると考えられていた地名を日本語に求めるよう促していると言えます。『川井村郷土誌』は、タイマグラを『大麻倉』と表しています。『大麻」は音に合わせた当て字で、‘タイマ’と‘グラ’の複合語と考えられます」。(『早池峰の東麓を訪ねる』-タイマグラとアンギョカイ沢-岩手県立博物館館長)
いまだアイヌ先住民説をアイヌ地名を根拠にする人がいますがアイヌが成立したのは鎌倉設立以後100年たってからなのでアイヌが本州に所領を獲得した事実はありません。アイヌが本州にやってくるはるか以前に本州隅々の土地まで鎌倉家臣たちが治めていて漢字地名がすでにあてがわれていてましたから現在も本州のアイヌ地名だと言われている地名は一つ残らずみんな嘘のデタラメです。その証拠に北海道すぐ手前の本州最北青森でさえ(難民・出稼ぎアイヌは200名ほど海岸線にいましたが江戸中期だけです)アイヌの遺跡・遺構もイオマンテも伝承も何一つ存在してません。そもそも移民であるアイヌ本体が13世紀までまだ大陸にいて日本に存在してなかったのですからアイヌ地名もアイヌ地名の根拠となるアイヌ遺跡も本州に形成できるわけがありません(仮にアイヌ地名だと言ってるひとがいたとしても縄文人=エミシ=アイヌとみたてた共産主義の詐欺師金田一京助氏と東条英樹の親友山田秀三氏コンビが捏造・創作したデタラメ語呂合わせアイヌ地名由来です)。某団体は縄紋の子孫である擦文文化人とオホーツク人が混血合体アイヌが生まれたとしてますが、擦文文化人とオホーツク人が混血合体して実際歴史上トビニタイ人という擦文文化人に近い混血人種が生まれましたが決してアイヌ人にはなりえませんでしたし混血ぐらいでは新しい人種が生まれないこともこのこと(トビニタイ人がアイヌとは縁遠っかった)によって実証済みだったのではないでしょうか。いい加減☓☓ワクチンやマイナカード茶番みたいにエセ先住民の利権のために詐欺や嘘でアイヌではない側の国民の権利や郷土文化や伝統、歴史を犠牲にし踏みにじるのはやめてください。
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