アイヌは先住民ではありません(アイヌは移民です)
アイヌの故郷には本当に「ユーカラ」の虎がいた
「9世紀のアムール川流域には渤海国の諸王に従属するクシュの諸種族が居住していた。その中にクイ(アイヌ)《骨嵬》とギレミイ(ニブフ)《吉烈迷》のいくつかの氏族が含まれていた。これらの種族たちが住んでいた土地は後の渤海の領域に入り、テリ府《鉄利府(ウスリー川以東)》およびモゼ府《鄚頡府(ハバロフスク西南)》と呼ばれていた」。《M・S ヴィソーコフ「サハリンの歴史」》。
アイヌとニブフは古い時代から海外に存在していた少数民族であって両方とも7世紀〜10世紀に中国東北部から沿海州に栄えた『渤海国』というツングース系民族を中心とした多民族国家に組み入れられていた。アイヌには北海道・樺太以前の本当の故郷が海外にあったというのです(確かにアイヌの歴史でもある口述叙事詩「ユーカラ」には頻繁に虎が出てくるが日本にも樺太にも虎はいない)。ここへきてアイヌやニブヒは樺太・北海道で発生し長期に渡ってそこに居住していた先住民族なのではなく後から大陸から海を渡って来た移住民族であることがはっきりしました。日本において縄文人やエミシから急速変容とげアイヌとして自然発生したというおとぎ話のような今までの様々の学説はこの文献の発覚とDNA遺伝子解析の合わせ技によってまったくの虚偽であったことがバレてしまったのです。もう赤の他人同士であった擦文文化とアイヌ文化とのミッシング・リンクを今後はもう無理やりに繋げる必要はありません。アイヌは外海で渤海国という多民族国家の一員であったことのある一つの民族であり擦紋文化人や渡党と呼ばれる和人が先住していた北海道に後で移住してきたわけですから、都合よくこじつけて先住民にしたり本来関係のない縄文人やオホーツク人をアイヌの祖先にしたりにしようとしたりするのは間違っています。
「実際に、サハリン島の最も古い文献にこの莫曳皆部(モー・イジブ) を祖先とするアイヌの住人の記録が残っています。この莫曳皆部は元の時代には骨嵬(グウェイ)、明の時代には苦夷(クイ)または苦兀(クウ)と呼ばれ、清の時代には移り住んだ先のサハリンのクエという地名の由来にもなったという説があります」 ガオ・ウェンデ 「中国少数民族歴史辞典」吉林教育出版局、1995 年
このアイヌの先祖がいるという莫曳皆部(モー・イジブ)のことですが中国の古い文献『新唐書』《渤海編》にはその場所が特定されています。『初め黒水(アムール)の西北に思慕部(ナナイ)があり、さらに北に十日行くと郡利部(ニブフ)があり、東北に十日行くと窟設部(くつせつぶ)があった。これはまた屈設とも号した。それからやや東南(新唐書の文脈から同方向に払涅・鉄利・虞婁・越喜がなければならないので実際は90度ずらした《西南》のこと)に10日歩く(約400KM〜600KM)と莫曳皆部(モー・イジブ)があった』と書かれています。そこが先のM・S ヴィソーコフ氏「サハリンの歴史」 で言うところのハバロフスクの南方にある黒龍江下流の松花江川とイスリー川に挟まれた区域であり、のちに渤海国の鄚颉府(バクケツ《モゼ》)・铁利府(テツリ《テリ》)に編入された場所だとすれば、確かに莫曳皆部(モイチモチイとも読む)は鄚颉府・铁利府とはピッタリ相重なるか、もしくは近接する地域であることは確かなようです。北海道にも樺太にも太古の昔から決して存在することのなかった「ユーカラの虎」はこちらではしっかりと存在しています。
どのように日本に入ってきたかー「13世紀鎌倉時代に蒙古に追われて日本にやってきた」はデマではなくは歴史事実
- 1254年蝦夷(北海道)反乱の噂。骨嵬(クイ・アイヌ)樺太侵入の疑い
- 1260年5月クビライ・カアン皇帝即位。モンゴル帝国元朝アムール川下流域に侵攻。
- 1260年蝦夷(北海道)反乱。骨嵬(クイ・アイヌ) 北海道侵入の疑い。蝦夷の反乱は散発的に応永二年北海夷狄の鎮圧まで続く
- 1260年日蓮「立正安国論」を北条時頼に進上し他国からの侵攻を警告
- 1263年元軍碩徳(シディ)の大陸沿海州の吉里迷(ギリヤーク・ニブフ)遠征
- 1263年吉里迷(ギリヤーク・ニブフ)元に降伏服属にて樺太移住完了
- 1263年元皇帝フビライ高麗国使遣わし「牒状」(降伏を促す国書)を日本に届ける
- 1264年元軍骨嵬(クイ・アイヌ)討伐樺太遠征開始
- 1268年津軽安藤五郎氏樺太・蝦夷島の蝦夷(骨嵬《アイヌ》)に首を取られる。安藤一族内紛(幕府弱体化一因)の発端となる。
- 1274年(文永11年)文永の役
- 1281年(弘安4年)弘安の役
- 1284年元軍骨嵬(クイ・アイヌ)討伐樺太遠征再開。以後三年連続攻撃
- 1286年骨嵬(クイ・アイヌ) 樺太から元に完全排除され北海道移住完了
- 1308年骨嵬(クイ・アイヌ) 元に降伏服従
- 1320年出羽の蝦夷(北海道からの骨嵬《クイ・アイヌ》)蜂起。津軽へ大乱拡大(『山からモっこ来るぞ」の子守唄」はこの頃)
- 1325年鶴岡八幡宮の社頭にて蒙古の時の異国降伏祈禱と同規模同格の蝦夷(クイ・アイヌ)に対する蝦夷降伏祈禱行われる
アイヌの樺太北海道移住開始は1263年モンゴル建国功臣木華黎(ムカリ)後裔の碩徳(シディ)による吉里迷(ギリヤーク)遠征あたりからで『新編弘前市史 』 文献には数百年に渡って平穏だった北海道における最初の異変が1260年の「蝦夷(北海道)騒乱の噂」 や「蝦夷(北海道)騒乱」という記述に見られます。骨嵬(クイ・アイヌ) の本拠地からは間宮海峡から樺太・北海道へと来るルートでなくても大陸沿海州から船で樺太や北海道に直で来れる距離です。2,3年前にも何度か蒙古興隆拡大に伴う沿海州への遠征があったと思われます(製作中1260年5月クビライ・カアン皇帝即位直後にモンゴル帝国元朝アムール川下流域に侵攻の事実を見つけました。これでほぼ決定です)。というのも実際アイヌを対象にした樺太討伐遠征だけでも8回も執拗に行われています。1264年アイヌによるギリヤーク領侵入への苦情を聞き入れた元寇はその要請に応じてアイヌ討伐のため実際に樺太遠征を開始。1284年には三年連続して蒙古樺太侵攻しています。「この数度の攻撃にわたる元軍による樺太への渡海侵攻の結果アイヌは元軍により樺太から完全に駆逐され北海道へと移住したとみられる」。(中村和之「北からの蒙古襲来の真相」『歴史読本』第47号 )
「元史世祖本紀至元元年(1264年)十一月辛巳の条に『《骨嵬》クイ(アイヌ)を征す。是より先、《吉烈迷》ギレミイ(ニブフ)を内附(服属)す。いふ其国の東(大陸古文書は時計回りに90度で南を示すことあり)に骨嵬(クイ→唐子⁉)、亦里宇(イリウ→日の本⁉)両部あり。歳に来たりて疆(国境)を犯す。故に往いて之を征す』とある亦里宇と漢魏時代の挹婁の親類関係を問題として取り上げているが、両者を関係づけることは、その地理的条件から見て、大体誤りのないように思える。そうだとすれば挹婁(ゆうろう)は、元代においてもその名をある特定の部族に残し、しかもなお同様に黒竜江右岸、南樺太の対岸辺りに居住していたことがわかる」(石田英一郎)。
当時の北海道の住人を和語の通じない唐子(からこ《アイヌ》)と日の本(ひのもと《アイヌ》)そして和語が通じる渡党(わたりど《和人》)の 三種類にわけて説明し、アイヌの実態を国内で最初に書き記した古い文献「諏方大明神画詞」(小坂円忠1356年 正平11年) がありますが、アイヌを唐子(〘からこ〙『《唐》は中国を特定とするより外国からきたものの意』) と呼んだのは北海道の先住民である和人の先人が中国満州付近から北海道にやってきたアイヌの出自を把握しその素性を的確に表現した呼び名であったわけです(因みに『樺太』〘からふと〙の語源は日本語で『唐人』《からひと・からうど》の音と当て字です。アイヌ語〘カラㇷ゚ト Karapto〙は日本語からの借用です )。「三種の蝦夷のうち、日の本、唐子の二類は、その地外国(大陸側故地)に連り、形体は夜叉のごとくで変化無窮であり、禽(きん)獣魚肉を常食として農耕を知らず、言語も(外国語で)通じがたい。一方、渡党は和人に似ているが髭(ひげ)が濃く多毛である。言語は俚(り)野(田舎じみている)だが大半は(日本語が)通ずる」(『諏方大明神画詞』)。
この『諏方大明神画詞』にある三種類の人たちが北海道に居住するころにはすでに擦紋文化が消滅して一世紀ほど経過しています。その300年前にはオホーツク人が樺太に移って北海道には居なくなっています。当時この三種類の人たち のうち北海道先住民の擦紋文化(縄文文化系統)を継承しているのはかつて同じ和語同士が通じ合っていた渡党の人々でしょう。少なくとも和語が通じなかった唐子(外国から来た人たち)ではありません。(奥州藤原氏の頃は北海道にもアイヌがまだ存在してませんから《義経も頼朝もアイヌを見たことも会ったこともないでしょう》奥州藤原氏が毛皮やワシ類の矢羽根など高価な交易品のため樺太や大陸まで向かわせた当初の交易パートナーはアイヌではなく本当の先住民である擦紋文化人や渡党でした。唐子《アイヌ》が和人の交易相手となるのは擦紋文化と奥州藤原氏滅亡後14世紀以降の安藤氏の時代からです)
平泉と反対側北海道厚真町では12世紀半ば平泉から移送し仏教経典を埋納した巨大な常滑焼広口壺と経塚が見つかっており 当時まだアイヌがいなかった北海道にすでに本州からの和人(渡党)が居住していた遺跡・痕跡が残る。擦紋人と和人こそが先住民
「トンチ伝説」の真実(ロシアのアイヌと日本のアイヌ)
「最初のサハリン居住者は『トンチ族』だった。ところがこの集団はアイヌが来たことによっていなくなった。その後にニブフがアイヌを追う形でサハリンに移ってきた。ニヴフはそこに発見した竪穴住居跡を見て『アイヌの穴』と呼んだ。当のアイヌは『トンチ族の穴』と呼んだ」。(E・A・クレイノヴィチ『サハリン・アムール民族誌』)
なんだか北海道の歴史でアイヌ文化が現れたのと同時に擦紋文化が消滅してしまったのと同じような気になる関係性を彷彿させますが、サハリンでは上記のようなサハリンの先住民の順番「トンチ→アイヌ→ニブヒ」を言い表した「トンチ伝説」という言い伝えが残っています。トンチ人は竪穴式住居なのでオホーツク人でしょう(樺太は北海道の状況にそっくりでアイヌの前に先住民がいて縄文遺跡や擦文文化遺跡もあり擦文文化人の竪穴の可能性もある)、コロボックルは当時千島列島にまだ残っててトンチと同じくアイヌの口から出た言葉なのでコロボックルとトンチは別々の存在として区別できます。ところで先に樺太にいたのは蒙古に服属していたニブヒでそこにアイヌが侵入してニブヒは蒙古に解決を要請し蒙古軍がアイヌ討伐のための樺太遠征(1264〜1308年)があったわけだからニブヒとアイヌの先住民の順番が逆ではないか思う人がいるかもしれません。しかし残された遺跡・遺構などの物証で判断する考古学上(ロシア・サハリンでもアイヌの初出現の認識は日本と同じ13世紀から15世紀です)ではトンチ(オホーツク人)は先に先住民として存在しててもニブヒとアイヌは樺太(北海道にも)にはもともと居なかったことは伝説通り裏付けされていることではあります。当時の歴史的な詳細な経過に関しても「トンチ伝説」や文字を持たなかった人たちの伝承や伝説は古い文献と同じくらいが価値があり正しいように思います。
「樺太アイヌはトンチについて語りたがらない。ピウスツキは親友となった樺太アイヌ男性から実はトンチは樺太アイヌより先住者であることが明らかなのでそのことが知れたらロシア人によってこの土地から追い出されるのではないかと懸念しているという理由を聞かされた…」。(北海道民族学会誌第2号『樺太アイヌの竪穴住居利用について』田村将人)
一方日本のアイヌは、「サケ捕獲は先住権 アイヌ民族の畠山敏さんサケ捕獲決行」。「巨額民族共生象徴空間施設ウポポイ」。「アイヌ子弟奨励費制度および大学等修学資金貸付制度」。「アイヌ民族の権利の保障を求める決議」…
移住時期も大陸の出自場所もまったく同じアイヌなのに移住した先の国によってエラい違いです。
この地図はトンチが先住していたと思われる12世までの様相しか載っていませんが北海道アイヌ、 樺太アイヌ、樺太ニブフの出現は13世紀〜15世紀から。樺太ウルタは17世紀からの登場です。
アイヌの中のDNAが北海道縄文人ではなく関東縄文人に近いのは関東から江戸時代初期に 大量の入植者が北海道に入って混血したため(的場光昭氏 「科学的アイヌ先住民否定論」) https://www.youtube.com/watch?v=tcHlBKCX8oU&t=149s&ab_channel=%E7%9A%84%E5%A0%B4%E5%A1%BE
民族の歴史を記録してしまうDNA
「アイヌ集団の特徴は(日本人も持たない)ハプログループYを持つことにある。…縄文人にはこのハプログループYは存在せず、アイヌ集団には別ルートで考える必要がある」(元国立科学博物館長 篠田謙一「DNAで知る日本列島集団の起源」普及啓発講演会報告集)
「少なくとも現時点のミトコンドリアDNA分析からは、二重構造説が想定するアイヌは縄文人の直系の子孫であるという言説は支持されない事になります」(元国立科学博物館長 篠田謙一「DNAで語る 日本人起源論」)
「アイヌが縄文人の直系の子孫であるという説は必ずしも日本の人類学会では主流の説ではないが、巷ではかなりこの説は広く信じられている。そういう意味ではこの説は検討に値する。アイヌから様々なJCVゲノム型が検出されたから、現代アイヌ全体が縄文人の直系子孫であるという説は否定される」(《東京大学医科学研究所》 余郷嘉明 「アイヌから検出されたJCVウィルスDNAの系統分析」)
すなわち遺伝学的にも縄文人はアイヌの祖先でもなんでもなかった。それもそのはず、結局は700年前にやってきた移民だったわけですから。アイヌにいくら縄文DNAが多く含まれていても室町時代以後日本人と混血して混入した縄文DNA は古からある日本国内の純粋な縄文DNAとは全く違っていて当然なわけです。日本人の祖先の縄文人にあたるアイヌの祖先は縄文人ではなくイヨマンテ文化が同じケット人。もしくは言語が近いコリャーク人でしょう。百歩譲ってアイヌが日本人と同じ縄文人が祖先だというなら最低でもアイヌ語は日本語族グループになるでしょう。しかしアイヌの中の縄文人は米国大陸のインディアンに近い言語であって日本語とは根本から違います。日本語グループの仲間でもありません(半島南部に縄文遺跡が存在する韓国の朝鮮語ですら日本語族の仲間とされています)(中川裕「日本語とアイヌ語の史的関係について」『日本語系統論の現在《国際日本文化研究センター》日文研叢書第31巻)
弘前長勝寺「嘉元の鐘」(1306年)には得宗領主北条氏を筆頭とする津軽各領主の鎌倉武士たちの名前が連なる。本州北部は隅々まですでに漢字地名。領主の許可なく新参アイヌが本州に地名を残すのは困難。というか当時アイヌは本州にまだいない。
本州のアイヌ地名とその地名由来は一つ残らず科学性も歴史地理的根拠もないコジツケ・デタラメ
「タイマグラはアイヌ語の‘タイ・マク’の転訛で“森の奥へと続く道”という意からの命名とされています。ここはまさにそのような佇たたずまいです。 しかし、近年の歴史学やDNA遺伝子学の見地からすると、アイヌ人が東北地方に住んでいたという事実はない(下北の海沿いは例外)ことがわかってきました。科学の進歩はアイヌ語に由来すると考えられていた地名を日本語に求めるよう促していると言えます。『川井村郷土誌』は、タイマグラを『大麻倉』と表しています。『大麻」は音に合わせた当て字で、‘タイマ’と‘グラ’の複合語と考えられます」。(『早池峰の東麓を訪ねる』-タイマグラとアンギョカイ沢-岩手県立博物館館長)
「日本の地名の中には音がアイヌ語のある種の言葉と同じであったり似ているものが珍しくないことを示している。それをやみくもに並べてこの地名の語源はアイヌ語であるといってみても所詮語呂合わせにしかなるまい」(筒井功「アイヌ語地名と日本列島人が来た道」株式会社河出書房新社)
「アイヌ語で解釈できる(とされている)東北の地名を「アイヌ語地名」と呼ぶのは適当ではない。....なぜなら東北北部にそれらの地名がつけられていた時期にはまだアイヌ民族が成立していなかったからである。そうである以上、それらの地名の元になった言語はアイヌ語とはいえない。」(松本建速「蝦夷の考古学」同成社 2006/8/1)
いまだアイヌ先住民説をアイヌ地名を根拠にする人がいますがアイヌが成立したのは鎌倉設立以後100年たってからなのでアイヌが本州に所領を獲得した事実はありません。アイヌが本州にやってくるはるか以前に本州隅々の土地まで鎌倉家臣たちが治めていて漢字地名がすでにあてがわれていてましたから、文字も持たず外国語を話すアイヌが日本語が話されている当時の本州にあとから突如入ってきて地名を残すというのはまず無理でしょう。本州占領という実行支配や幕府からの許可された所領獲得が地名を残す唯一の手段になりますが残念ながらその痕跡も歴史もないのです。ですから現在本州のアイヌ地名だと言われている地名は一つ残らずみんな嘘のデタラメです。その証拠に北海道すぐ手前の本州最北青森でさえ(難民・出稼ぎアイヌは200名ほど海岸線にいましたが江戸中期の短期間です)アイヌの遺跡・遺構もイオマンテも伝承も何一つ存在してません。(上の図表にもあるように)遺伝子学的にも言語的にも互いのつながりは全くありません。
例をあげると、津軽半島の十三湊の「とさ」の語源はアイヌ語の「ト・サム・ポンマリ(湖沼のほとり)」だといいますが、基衛の子藤原秀栄が津軽半島十三湊を治めて福島城を再構城したのが名前を地名に合わせて「藤原」から「十三」に改名した年と同じ嘉応年間(1169〜)であるのでアイヌが日本に誕生した13世紀(1286年)より100年以上古くなるため十三湊の由来をまだ日本に存在してなかったアイヌ語起源とするには無理があります(『とさ』地名名付け親は奥州藤原氏であって素直に日本語の遠長『とおおさ』を語源とする高橋富雄説が自然です)。また相内「あいない」はアイヌ語で「アイヌ・オ・ナイ」「人の多くいる沢」という意味にされてますが南部光行によって相内観音堂が建久2年(1191年)築かれたときには相内「あいない」という読みの漢字地名はすでにあった記録があります。これもアイヌがまだ日本にいなかった時代(アイヌ日本登場の100年前)のことで時系列的に考えてもアイヌ語語源するにはあまりにおかしな話しです。また恐山(おそれざん)の語源である下北半島の宇曽利「うそり」は「ウショロ」であり「くぼみ」を示すアイヌ語だとする説明もまかりとってますが奥州安倍氏(元総理安倍晋三祖先)に関わる記録として天喜5年(1057年)「扶桑略記」(国史大系)や「今昔物語」巻25巻(古典大系)に漢字地名(ウソリ)で記載されており、アイヌが東北下北に初確認できる600年以上前(アイヌ日本誕生の200年前)のことですから決してアイヌ語ではありえません。本州では西日本の不自然なアイヌ由来地名だけではなく北海道に近い北端青森ですらこのようにアイヌが存在する前からアイヌ語が由来したり、アイヌが居ない地域でアイヌ語地名が存在するという詐欺まがいの地名由来が平然とまかり通っており歴史的な時系列の齟齬や地元の文化伝統的的論理矛盾をおこしてます。
「平内」(ひらない)のように地名が名前の語源と一緒になってる名字の方々はもっと深刻です。「平内」は一般的に全国で言われている平内(ヘイナイ)の地名由来と同様に、「平氏(へいし)の内舎人(うどねり)」を意味していて「平」は当初この地を治めていた桓武平氏(津軽曾我氏や北条氏)のことで、「内」は宮中の役職名である内舎人(うどねり)のことを表す。というならその村の出身の住民であったりあわよくばその北条氏や曾我氏をご祖先にもつことですから非常に誇らしいなことです。が、この平内(ひらない)の語源が仮にアイヌ地名だったらどうでしょうか。アイヌ語の「ピラ・ナイ」(崖・川)が由来とされていて、峡谷を流れる川という意味がある。と、金田一京助・山田秀三のような権威のある学者にそういわれても、日本人なのに地名や名前のせいでアイヌにされてしまうというのは、自分だったらば自分の文化や歴史が本来関係のない民族に捻じ曲げられて抹殺されてしまう恐ろしさもさることながら自分のアイディンティティの問題として耐えられません。学者の詐欺めいた行為や語呂合わせのような安易な作り話であったらなおさらです。実際、この青森の平内(ひらない)はアイヌ語語源ではありません。貞和3年(1347年)には平内は「曾我貞光申状案」の文献によって城の名前として確認できますがアイヌをこの辺りで最初確認できるのは藩士役人の船頭などしていた江戸時代の短期間であり、その間300年の差があり後から300年後れてやって来た北海道アイヌは日本のお城のある地名の名付け親にはなれません。本州ではアイヌよりも何百年もはるかに和人のほうが先住民ですから非日本語であるアイヌ語が地名として残ることは不可能です。あえてこの青森の平内の正確な語源にこだわるなら同県内の八戸の方にある同じ地名の階上町の平内「ひらない」が数十年古くて青森の平内にとっての本当の語源になります。北条氏直轄領地だった八戸階上町の平内を人と神社と文化と地名をまるごと青森の平内側に移動(移住)させた歴史がある場所なのです(浪岡御所も下閉伊の船越から移動させた歴史があります)。金田一京助・山田秀三は県内にいくつかある平内「ひらない」地名の古いほうには全く気がつくこともなく侮辱的なまでに地方の歴史・文化を軽視して地名の語源をアイヌ語と断じてしまったために同じ県内にある同じ読み方の漢字地名であるにも拘らず、「片方はアイヌ語だがもう片方はアイヌ語ではない」というとても学者らしからぬ馬鹿げた語源の宙ぶらりん状態を作ってしまったのでした。
冒頭に戻りますが、そもそも移民であるアイヌ本体が13世紀までまだ大陸シベリアの旧満州地域にいて日本に存在してなかったのですからアイヌ地名もアイヌ地名の根拠となるアイヌ遺跡も日本の本州に形成できるわけがありません(仮にアイヌ地名だと言ってるひとがいたとしても縄文人=エミシ=アイヌとすべて混同して考えてしまった共産主義の詐欺師金田一京助氏と東条英樹の親友山田秀三氏コンビが捏造・創作したデタラのメコジツケ語呂合わせアイヌ地名由来です)。某学術団体は縄紋の子孫である擦文文化人とオホーツク人が混血合体アイヌが生まれたと解釈してますが、擦文文化人とオホーツク人が混血合体して実際歴史上トビニタイ人という擦文文化人に近い混血人種が生まれましたが決してアイヌ人にはなりえませんでしたし混血ぐらいでは新しい人種が生まれないこともこのこと(トビニタイ人がアイヌとは縁遠っかった)によって実証済みだったのではないでしょうか。鎌倉時代中期まで明らかに存在しなかった怪しげな先住民の利権のために詐欺や嘘をついたり法律つくって日本国民の権利が狭めてその郷土文化や伝統、歴史を踏みにじるのではなく、本当の先住民である日本国民のほうをもう少し大事にするようお願いいたします。
「唐時代の黒水莫河地区のシム族(思慕族《ナナイ》)の地理的見解に関する新たな研究」より 10世紀の日本国内にまだアイヌはいないが大陸側沿海州にはそれに相応する民族が存在している
サイベリアンの民族衣装の模様と口琴楽器はどの地域もそっくり(左からアイヌ、ナナイ、キリギス、チュリム)
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